2が届いてしまったので、キングダムハーツを一日中プレイしてクリアしました。四月に入ると忙しくなることが分かっているんで、とにかく急いでソラの(恐怖の)水中引き上げから始めました。
それにしてもクリアに何年かけたんだ……?
少なくともFMの出る前(オリジナル版)の新品を買っているので、2002年度中に購入したと思われます。まだスクウェアソフトの時だったしね。
2を買わなければ永遠にクリアしなかっただろうな(苦笑)。良かったのか悪かったのか。
あとでFMには難度の切り替えモードがあると知って、歯がみしましたよ~。
最後の休息からあのラスボス連戦の鬼っぷりなんですか。鬼! 鬼! アクションなのでばしばしボタンを叩いていると、余計なところに力が入って肩を怒らせ歯を食いしばってプレイするので、いつもの五倍くらい肩が凝りました。終わったときは「私偉い!」と素で思いましたもん。つまり、個人的には「うーん……?悪くは、ないけどね……」。
ファンの方、および考察を期待されていたお客様、ご免なさい。
エンディングがいやらしい終わり方してるなあとか(あざとすぎ!)、ボタン連打のバトルシステムは私には面白くないし苦手だなあとか、グミシップ結局分からないからほとんどそのままで特攻したなあとかいろいろ思いましたが、「避けて叩く」だけでほとんどクリア出来るのはライトユーザ向きとしては優秀なんでしょうね。3D酔い持ちで反射神経のない私にはきつかったけど(汗)。
レオンさんが根もすっごくよい青年に成長していたのが一番の幸せでした。
うまく育てばFF7以降の主人公できっと一番いい男になるよね、スコール(17)君。
それにしても思わせぶり(深そうに見せて実はそうでもないというところに落ち着く恐れのありそうな”思わせぶり”)で怖い話。
キングダムハーツは身心二元論を採る立場なんですね。ついでにそれと対比するように光と闇という二元論。分かりやすい構図ですけど、やけに心がどうのこうの、なんて言うのでなんか怖いよ……。
実のところ、ほとんど感情移入出来ませんでした。ディズニーの世界を一貫性をもって飛び回るためにかぶせた物語なのでしょうが、うーん、このそこはかとしれない怖さ、共有してくれる方いませんか……? 私がディズニーに特殊な印象(笑)を持っているせいかもしれませんが、なんとなく洗脳と同様の怖さを感じる。
ただ、感情移入できない理由は、他にもありうるような気がします。
あえてプレイヤーに「メタ(より次元の高いとしての)」という立場をそこはかとなく意識させているかもしれません。外の世界にプレイヤーがいることを強烈に認識づけるというか。
日記にもちょいと書きましたが、小さな物語世界、それを鍵で閉じてまわってその世界の中で完結させる。子どもの中の光からできあがった小さな無数の世界=ディズニーの(所詮)ファンタジー(に過ぎない)、ってことですよね。(うわー皮肉~)
で、より包括的な「キングダムハーツ」。これはその物語の受取り手(読み手)=プレイヤーと見なせます。
ソラが見るカイリの思い出(のイメージ)。これはまさに図書館でした。(ここでKHの評価がいい方へ変わりました。それまでは………)
もしかして……プレイヤーに「図書館に行けば、また物語と再会できるよ~」とこっそりメッセージを忍ばせていて、「だからみんな本を読もう!」というオチなんじゃないかと。
え、ディズニーのDVDを買えというオチ? 失礼しましたー。
ちなみにキャラ萌え出来ない私は割とディズニーが苦手なので、割り引いて読んでください。
ディズニーってキャラ萌え出来ないとつらい世界だと思いますが、いかがでしょう?
子どもなら分かりますが、大人が着ぐるみと一緒に「写真撮ってください」とお願いする世界が理解できない……、ねえ、みんな、あれ着ぐるみだよ?! 中の人いるよ?!と聞いてみたくなるのです。根っこはコスプレが許容できるか否か、とほとんど同じ気がしますが。(ちなみに自分は苦手) ただし、許容出来る人がいることを思うと、「人間ってイマージュの存在なんだなあ」と素直に感心します。多分他の動物には出来ないことですよ。
ついでに、もともとファンシーなあの世界があまり好みではなくてハロウィンタウンとその面子(ディズニーだったんだ(驚愕)?!)くらいしか興味を引くワールドがありませんでした……(そして吐いた)。
あとドナルド。ヤツだけは可愛い。性格も顔も。(でもディズニーの中では、という程度)
クリアおめでとうございますー(笑)。
ディズニーは怖いと思っています。但し多分に青星さんとは全く別の意味で。
例の一番酔うアリエル、アリエルって名前は「イスラエル」のことです。そして彼女の宝物の中には「改悛のマリア」。赤毛は以前お話ししたとおりですね。
或いは夜には化け物になってしまうお姫様の話。口吻けによって呪いの解けた姫の本当の姿は、昼の人間の姿ではなくて醜い化け物のほうで、でも化け物と結ばれてハッピーエンド、とか。
宗教じみた洗脳とのことでしたが、ディズニーが宗教(キリスト教)的に右か左か、ということでしたら、わたしは確実に左だと思っています。右っぽい見掛けのハッピーエンドほど構造は単純ではない、なのに見掛けは恐ろしく単純だからこその、刷り込みという点ではとても洗脳的だと思っていますから。そこが怖い。
多分根底に流れる宗教観はFF8に近いと思います(まぁシナリオに口出してるのは同じ人ですし)。その上でまるで単純な二元論であるかのような体裁を取ってみせる、わたしはそこが怖いです。これはKH2になると混沌としてきて(ハッピーエンドとしては破綻してきて)裏が見えてくるんですけど。
あ、ちなみにシステムは2でもっと簡単になってます。つまりあれでも「難しい」人が多かったということで、避けて叩く「だけ」というのは多分ライトユーザにとっては当て嵌まらないんじゃないかと。実際子供に聞いたらクリアできなくて親にやってもらっているとか。逆にちょっと馴れた人なら技や魔法を使い分けますし。そういうことを言い出したら12も「ガンビット設定するだけでクリア」できちゃうということになりますし(笑)。
ところでディズニーにキャラ萌えが必要って意見は初めて見たんですが、ど、どこらへんがですか? あの何処までも3Dで回せそうな顔って、萌えに値するものだったんですか……!(笑) 萌えって基本的に二次元のもので、アメコミ風の立体を意識した物体はそういう対象ではないオタクが多いと思ってました。
ディズニーに対する感情移入って、知るディズニーファンを見る限り、多分世界観萌えです。着ぐるみはキャラと言うよりその世界に存在する巧妙なオブジェクトで、「自分が」その世界に入るために必要なアイテムだからこそ、一緒に撮ることで「自分を」キャラ化する。言うなればコスプレを見る側ではなく「世界の一部として演じる側になる」快感のために、キャラは利用されていると思ったのですが。
昔ディズニーランドでバイトしてたんです。そこで一番に求められたのが、客との一体感でした。見せると言うより、参加させるんです。スタッフも客も自己陶酔して演じきるのがあそこの原則でしたから、自分以外のものになることにのめり込めない人にはとことん駄目だろうなぁとも思いました。
ところで12をクリアしたんですが、……うーん、わたしには巨大企業のディズニーなんかより、ずっと12――松野シナリオのほうが「ツクリテの信仰が見えてしまう」作品に見えました。タクティクスオウガのときから感じてはいたんですが。
ゲームとしては非常に面白かったのですが、最も感情移入したのがヴェーネス、最も反発を覚えたのが主人公(笑)のバルフレアになってしまって、個人的にはどうにもモヤモヤしたものを抱えています。そしてだから、松野シナリオに熱烈なファンがつく理由も、逆に気持ち悪くなるプレイヤが出る理由も、何となく感覚として理解できたような。同時にディズニーも(笑)。良い悪いではなく、類型の積み重ねでできたドラクエの対極に近い位置に存在するのが松野シナリオだな、と。
プレイヤが演じるための主体(器)としての類型キャラ&類型ストーリーと、演じている客体(キャラ・歴史)をプレイヤが鑑賞するための松野シナリオ、という対比という意味で。だから青星さんがディズニーやドラクエやFF3が苦手、というのは、良くわかるような。間違ってますか?
だから逆に言えば、前者を好む人は、FF12は当然シナリオ的にも、そして何よりシステム的にも、耐えられないと思います。システムが、その「演じられない」自分を浮き彫りにしてしまいますから。リーダーさえガンビットで設定できてしまう、というのは(SLGなら評価されただろうがRPGとしては)ちょっとやりすぎだったかもしれませんね。RPGファンには前者が多いでしょうから。
と以上感想でした。もっと長いのはいずれ(笑)。個人的にはとても楽しめました、12。ベイグランドもやりたいですが、そのまえにちょっとオウガとFF4をもう一度やりたくなってしまったので、また後程。
コメント有り難うございます&申し訳ございません。
いただいたコメントが、なぜかツールがスパム判定だしていたので、慌てて解除しました~。
ついでに自分の日記までスパム判定してくれてました(笑)。
おかしいなあと思っていたんですよ、せっかくかいた日記がどこかに……と。
閑話休題。
KH、FF8的世界ですよね。それはすごく思いました。
でも、書いてしまうと「あれ、私FF8好きじゃないか」という自己矛盾を抱えてしまう(笑)。
で、先に自己陶酔出来るか否かで好みが変わる、の部分からレスさせていただきますが、「その通り!」と膝を打ちました。
私、自己陶酔が出来ない人間で、「自己陶酔する自分こそが恥ずかしい」と思ってしまい、音楽の好みにもそれが覿面に出ています……。
「芯からその世界にのめり込めない」性癖のせいで、「空想世界と現実世界は違う」という境界を他の人より恐らく強めに持っているのではないか、と思うのです。
これには自己と他者(人間に限らず)の境界を強く保とうとする性癖も含まれます。
このような視点から述べると、割と明示的な松野シナリオ(「ああ、いつものパターンね」とプレイヤーが分かるもの)は私にとっては「この物語はフィクションです」レベルでした。「いつものパターン」なるものがたちもり様のおっしゃるところの宗教性かどうかは分かりませんが。
(あ、私バルフレア好きですけど、ヴェーネスも好きですよ。いつかヴェーネスのネタをものしてみようかなーと思っている程度に(笑))
一方、キングダムハーツに流れる「思惑」は通奏低音と書きましたが、明示されていないからこそ、やけにもっともらしいのが怖いのです。「この物語はフィクションです」という明示性がない、といえばいいのでしょうか……うーん言葉足らずですが。
たちもり様おっしゃるところのディズニー的な「刷り込み」と似たところがあるかもしれません。知らぬうちに(プレイヤーの意志とは関係なく)境界を越えてこっちに入り込んできそう(入り込ませよう)=洗脳、ということです。その怖さのせいで余計その世界にのめり込めない、という悪循環(笑)。
現在、2の前のCoMをプレイ中ですが、「一番大切なことは奥にある」といいはるCoMも同様の怖さを感じます。エンディングまで行っていないのでまだ結論するには早いのですが。
(CoMはシステムとしてはとても面白いと思っています)
そこに、中途半端に「本当のこと」が混じっているので怖い。学生時代、記憶を勉強していたので、ツッコミを入れたくて入れたくてたまりません。
萌えについて、自分の中の定義が間違っているかもしれません。
スコールはツンデレという話を聞いて、「え、3Dキャラでも萌えはあるんだ?」と理解していたんですが。ツンデレという文脈は萌え以外でも使われるってことでしょうか(大混乱)。
キャラ萌えって、キャラと自分とを同次元で置いた上で好き、ということではない……?
うーん、分かりませんッ。
コメントを拝読して、RPGがRolePlayingGameの略であることを今更ながらに強く思いました。
その点から行くとFF12がRPGにはなりにくいというのもわかりました(笑)。SLGの定義ってなんでしょうね……?(そして、自分がRPG好きを公言するのはいかがなものかと疑問にも思うようになりました…(苦笑)。)
こちらは何故かコメントが弾かれ続けました……内容がスパム的だったからだったのか!(笑)
演技的に自己陶酔できる人って、知ってる限りですと、「空想世界と現実世界は違う」というのを妙に割り切っているからこそ、すぐに戻ってこられる自信があるから簡単に没入もできるんですよ(笑)。だからゲームでも、気付けば朝までゲーマーにならずに、さくっと短時間で物語から戻ってこられて現実を進めるというか。逆に物語に没頭できない人のほうが、物語の続きが気になって途中でやめられないようで、面白い現象です。
その結果として、前者が好む世界には(ドラクエ的に)物語が薄く、後者が好む世界には(FF的に)物語が用意されている、といった傾向が出ているように感じてます。
そういえばオタクの世界には、キャラになりきってチャットをするなり茶・キャラ茶というものがあるんですが、それを見ると面白いですよ、本人の性格が出てて。いえキャラに出るといった意味ではなく、本人の性格が全く出ないで全然似てない人格を選ぶ人だとか、逆に自分に近い性格のキャラを選ぶ人だとか、どんなキャラを演じても自分でしかあれない人だとか、本当に同一人物なのかと思うほど演じ分けられる人とか、そういう演じ方と選び方そのものに人格が出ると言いますか。自己投影と自己陶酔と演技没入と感情移入と、すべて全く別物なんだなぁと。
うーん、言葉にするのは難しいんですけど、わたしが松野シナリオに感じている狂信的な宗教的部分って、「いつものパターン」といった物語的なところではなくて、もっと構成的なところの……「敗者の美学」「滅びの美学」「埋もれる歴史の屑への愛着」「死に様へのこだわり」、言葉にするとこういった部分なんです(死を祀るのは最も原始的な宗教。そして今迄のFFは、エアリスを殺してさえそれが薄い)。だから勝者と敗者の価値が相対化されてしまって、松野シナリオは英雄物語にはなり得ない、というのは本質ではなく単に結果だと思っています。
その美学で顕著に構成されているのがバルフレアとわたしには感じられまして、だからラストで生き残ってくれたことでわたしとしては救われたんですけど。制作者の、自殺願望ほど生臭いものではないですが廃墟マニアが持っているような心理というか、自己逃避や破壊願望までもいかない「滅ぼされたものへの執着」といったようなもの。バルフレアがそういう意識というよりは、そういう制作者の意識の下で結晶化されたのがバルフレアやヴィエラというか。そう感じました。敵だったらまだ納得したのですけど。
歴史マニアの敗者趣味者には多い心理のような気がしないでもないんですが(笑)。日本人はそういう儚く散った(かのような)白虎隊やら新撰組やら好きな人が多いですが、まぁわたしはそういうのが苦手なもので(笑)。
青星さんが感じてらっしゃるKHへの怖さ、は、読んでいて、ああ多分わたしには感じ取れないものだな、と思いました。殊ディズニーに関しては、裏を見てきたので妙に割り切ってる部分があるもので。白雪姫とかシンデレラとかね、舞台裏でまで「姫」のままなんですよ、スタッフにも笑顔で手を振り返すんです。そういう世界「設定」なのだと知っているから、多分わたしには侵略されるといった感情は持てないんだと、コメントを拝見して思いました。
だから含蓄めいた台詞も単に「お約束」としか捉えてないというか(笑)。まぁ野島シナリオはいつもそんな感じで、「重そうな台詞こそ軽い」と捉えているんですが。FF7とか顕著ですね。多分あの人のシナリオは松野さんとは正反対に、推理小説的なトリックや叙述の部分にこそ本質があって、多分重そうな台詞や設定はすべて「引っ繰り返す」ための小道具に過ぎないと思ってます。単語遊びが激しいと言いましょうか。
と分析しているもので、ちょっとその「怖さ」は理解できないかもしれません。「軽さ」としか認識していないから流しちゃってるような。御免なさい。
と書いた後で日記をば。もしかしてあれって青星さんにとっては結構リアルに感じられてたとそういうことなんでしょうかね?
いや、3Dキャラ自体には萌えは生まれ出ると思ってます(笑)。ただディズニー的な3Dとピングー的な立体の間にはオタク的に深くて大きな溝があるというか。「全方向から見られるためのモデル」と「特定方向からだけ見られるモデル」には、「ノンフィクション」と「フィクション」のような違いがあるんです。と中途半端オタクは語る。
でもスコールがツンデレというのは……うーん。リノアとの関係に於いてはそうかも、程度にしか思いません。スコール的なツンデレというのはあくまで関係性の中にしか生まれないもので、性格的なところとはちょっと別だと思いますので。
ツンデレには二種類あって、初めツンケンしていたキャラが次第に心を開いてデレ状態になるというもの。これがまぁスコールですね。ただこれはスコールの性格がどうこうという問題ではないんですよねぇ。単純に相性の問題で。これが人と人との間に生まれるツンデレです。そしてこちらはあまりツンデレとは呼ばれません。
これに比して性格的なツンデレというものは、嘘で構成されている好意と言いましょうか。上の「滅びの美学」にも通じる価値観だと思うんですけど、「好きじゃない」と言うほうが「好き好き」言うよりも「本当の好きに見える」といった捩れ、その捩れは無論キャラの捩れでもあるんですが、それを「見る」主体(読者)にとって「こそ」の捩れなんですね。言葉に出されない「目で語る」「背中で語る」といったようなものが重要視される風潮の延長としてのツンデレ……もっと言えば人と「観察者」との間に或る種「一方的に」生まれるツンデレです。もっと悪い言葉で言えば「意地張っててもデレデレなのが見え見えだぞコイツ」という、観察者の優位性と安全性を保てるオタク好みの観察対象(うわー)。
で……スコールがこれに当て嵌まるかと言えば、言葉が足りないだけで、内面と言動に「プレイヤが神の視点で見ても」そんな差があるわけじゃないから、スコール=ツンデレ、というのにはイマイチ納得できません。スコリノ=ツンデレ、ならわかるんですけど。サイファーならツンデレかも(笑)。
とまぁこんな意見もあるということで(笑)。ああ、でもサイファーと12への批判の根底は似ているような気がします。ツンデレがツンデレとして成り立っていないから、ゲームをやる大部分の層であるオタクは不安になるんですよ。ツンデレの「デレ」の部分が成り立つためには、キャラの心理を完全に観察者に対して開示する必要があります。オタクはそのキャラの「隠し所のなさ」に安心するんですけど、サイファーや12のキャラって殆ど内面を見せないでしょう。それをして「キャラが描かれていない」という的外れな批判になってしまうんですね、ツンデレが流行る今の潮流だと。まぁこれはツンデレのせいだけではなく、プレイ時間の長さのせいで「以前どんな言動だったか」というのを憶い出せないから推測しづらい、という問題からも来てはいると思うんですけど。とサイファー以上のツンデレライバルの居るFF4をプレイしながら思いました。クリアまで長くても30時間。
で、これが3D萌えはないと言ったことにも繋がるんですが。四方八方から見られる「現実的な」ものは萌えではないと思ってます。一方向からの、例えばツンデレのツンの裏のデレのような見方、切り取り方こそが「萌え」の見方であって、ツンの裏もツンであることが見える八方向の可能性は排除しておかなければならないというか。或る意味フィクションをフィクションと割り切るためのツールだと思います、萌えって。
SLGは、わたしもそんなやるほうじゃないんですが、まぁ手駒を動かしてる感覚ですねぇ。チェスや将棋の色の付いた延長、といった感じでしょうか。RPGは「先が読めないからやる」んですけど、SLGは「読んだ先が間違えていないか確かめるためにやる」というか。ガンビット設定もそんな感じでしたが(笑)。実際のプレイは組んだプログラムのデバッグに近い感覚で。
ところで……こ、こんな長く書いてて良いんでしょうか?;;;
うわ、すごい力の入ったコメント有り難うございます!
なんだか自分が俎上の魚のよーな気がしてきました。
自己陶酔出来ない人というのは、侵入への恐れから自己と他の境界を強く持っているってところでしょうか。あるいは切り替えが出来ない、頭の動きの鈍いひと……。(納得してしまった自分が哀しい……)
狂信的、と書いてしまったのでちょっと宗教的な響きが出てしまったかもしれませんが、私が感じた「怖さ」というのはもっと単純なものでした。
宗教もへったくれもありませんでした。テキスト的な怖さでもありません。
「心」についての、ツクリテの表現したものとこちらの思いこみとのズレがその怖さを生み出していただけでした。極論すれば、「似非理論をもっともらしく語るんじゃない! みんなが信じたらどうするの?!」という怖さ(笑)。
記憶を扱うネタがFFは多く、クラウドにしても「奥底に本当の自分が隠れていた」とか、スコールは「過去経験を忘れてしまった=自分を失いかけてしまった」とか、KHのRe:CoMでは「偽りの記憶」ですか。
RPGを字義通りに受け取るならば、「本当の自分は違うところにあるんだ! 本当の俺は今の俺じゃない!」という願望を解消するためでしょうから、なるほどごもっともな手法と思います。
ですが、この人たちの物語が随分と「心万能主義」(一本気な正義と書いたものの正体)であること、7以降のFFにおいてもっと厳密にいえば「自我を構成するにはまず自分の経験のエピソードの記憶ありき」という印象を受けます。
でも、そんなこと言ったら記憶喪失の人、みんな自我がないってことになってしまう(笑)。
実際には、記憶を失っても、よほどのことがないかぎり人間は「昨日の自分は今日の自分であり、今日の自分は明日も自分であり続けるだろう」という一貫性を当たり前のように持っています。たとえば認知症の方は最近のこと忘れてしまっていても、「その人であり続けている」わけですよね。昨日の俺とは違うぜ!なんて思うのは熱血少年くらいなもので(笑)。(実際にはひとつだけ、このような一貫性が崩れる病気がありますが、それでもたったひとつ、だけなのです。)
ツクリテの指し示している心、すなわちゲーム内で提示されている概念はむしろ”意識”であり、しかもそれもかなり上のレベルのものであって、心の機能の「超」一部に過ぎないものをあまり万能として扱ってほしくない、という個人的なバイアスがあります。それ以外の部分のほうが、人間をもっと規定しているでしょうから。
で。
FFはこれらを所詮お遊びと感じられていたのですが、「キングダムハーツ」=「心」をのっけからぶちあげて、さらに自分が知る限りのディズニー(というよりも元になった童話)の教訓的な色合いがかぶさると、「この物語自体は喩えになっているけど、現実においてもそうなんだよ」と言いたい雰囲気(?:恐らく幻覚)を自分が勝手にかぎ取ってしまった、というだけのことです。そのため妙にもっともらしく見えて、それが気持ち悪い、と。
「SFは科学的な事実に基づいて書かれていないから嫌いだ」という方がいますよね。あれより次元は相当低いですが、KHのせいで、そう言いたい人の気持ちが実感できました(笑)。
だから結局のところこの「怖さ」は個人的なものでしかないのです。
ということで、答えになっていますか?
コメント拝読して、「松野さんはすごい歴史好きだった」というのを思い出しながら妙に納得しました。
自分はそこそこ歴史好きで、廃墟好きなもので。でも、割合廃墟好きだとは思いますが、忠臣蔵とか白虎隊にはあんまり関心がありません。真の廃墟好きではないのかも。
(そうしたらベイグラントはたちもり様にあまり合わないかもしれません。喩えでもなんでもなく、まさに廃墟、いろんな意味で滅びゆくものの話なので)
ところで、バルフレアの逃避願望…というのは、最後のあのシーンに拘わらず、ということですよね。最初から逃げる人をかっこうよいものとすることにもやもやがある、という感じですか?
(個人的には、バルフレアは逃げようとしても結局逃げ切れないところがいいのではないかとほんのり思います(笑)。逃げ切るには常識が邪魔をするという感じというか、あと一歩がたりない抜けたところというか)
つ、つんでれにはそんなに深い謂われが……。
すごく分かりやすく解説有り難うございました。
そーかスコールはツンデレじゃないのか……。
狭義のツンデレと広義のツンデレと、一般人の(理解する)ツンデレとではすごい幅がありそうで、混乱します。
にしても、「観察者的にツンデレじゃないから、人間が描かれていないと解釈」という話には目から鱗でした。「裏を見た(と思いこむ)」その一手間があってから、人間的である、という風に理解するのか~そうか……。
「本当の姿は違う」幻想は相当、頑強なものみたいですね。実体験で納得済みです。
裏探ろうたって、もともとそんな裏なんてないんだよーと困惑している知人を思い出しました。彼女は(一般人的な解釈において)ツンデレと言われている人でした(大笑)。
うーん……FF12って、人によっては「RPGのシステムの基本にしてほしい」と絶賛する人もいるようなんですよね。
そもそも、RPGとSLGは定義から見ると、システム的な違いによって差が出てくるわけではないように思いますが。
そうか、FrontMissionはドラマチックシミュレーションRPGというジャンルだった(笑)。
確かにFF12の場合、言葉を借りれば「神様の視点」的であって誰か一人に没入するのは難しくて、その点ではRPGとは言いづらいのですね。
SLGの中にRPGが含まれる、という風に解釈したほうがいいのでしょうか。
たちもり様の視点と「怖い理由」と、私の視点と「怖い理由」が、それぞれの土壌にのっかったものになっていることをこのやりとりで痛切に感じました。バイアスと言うと聞こえが悪いですが、だからこそ面白いんですよねえ。(もっとも私のほうは無知をさらけだしまくっていますが)
勉強になりました。どうも有り難うございました!