FFにおける、永遠性(eternity)の話。
ウェブ拍手にて、野島さん担当のシナリオは同じパターンというご意見をいただいて、「そうそう、世界ががらっと変わってもパターンって同じだよねえ」と大いに賛成したのですが、そうなると「じゃ、どこに違いがあるのか?」と考えたくなるひねくれ者です。ごめんなさい。
なお、私は野島シナリオが実は好きで(笑)、だからこそ、PS以降のFFのほうが肌に合う、と思っているようです。多分。
野島さんの物語は世界が全く違うのですが、訴えるものは同じ、という潔さがよい。
もちろん松野シナリオも好きです。多分。
松野さんの物語は、物語展開としては同じパターンをたどっているように思うのですが、出てくる結論が微妙に違うところがいい。(松野さんといったら宗教か神<しかも意地悪な・みたいな(笑))
で、そこで思ったのが「永遠性」のとらえ方の違いが野島シナリオにあるんじゃないか?とふと思ったわけです。
何をもって永遠と見なすか。
もっと具体的には、何のために、彼等はそういう行動をとるのか?
うーん、問いを説明するのが面倒くさいので、ちゃっちゃと結論行きます(笑:オイ)。
違い、発見しました。多分。
やはりFF8が仲間はずれ。
FF8は「個が生き残るための物語」だったということ。
「わたしが続く」こと=「今がずっと続いてほしいよ」(リノアの言葉)。
スコールは今の世界、自分たち、が続くことを願って闘いました。
敵が彼等の世界を壊そうとするのだから当然でしょう。(結果として、「歪みはした」のですが)
逆に、FF7-FF10つながりは「命をつなげる物語」だったということ。個ではなく、いのちというものが続くこと。
たとえばFF10では螺旋を破壊、それぞれの個はいずれ消滅する世界になりました。しかし、幻光虫の存在によって、命は「変化しながら、つながってゆく」というもの。
FF7では、結局エアリスも、ザックスも復活しませんでした。
FF9は白状すると、物語をろくに覚えてないんですよね…でも、明らかに「個ではなく、命を続ける」物語だったと思います。
永遠の追究の仕方には、少なくとも二つの考え方があるように思います。
昔から不老不死を望む人たちがいます。不老不死、という考え方は、基本的に「個」の永遠性を追求するものになります。
「自分が」「今、生きている私が」永遠に存在することを望むこと。
一方、生物はどういう手段で永遠を追究していくかというと、「命をつないで」いくことによってです。多種多様な子を産み、育て、多様な手段を残しておくことによって、環境の激変においても生き残ること。こうして、個としてではないけれども「種」としての永遠性を得る。
参考までに:
「生命はめぐる」←「ゾウの時間ネズミの時間」で有名な本川先生のページです。一度実際に聴きました。(講演自体もとっても面白かったです)
歌詞を見ていると笑っちゃいそうになるのですが(失礼!)、良い歌です。
閑話休題。
「個」を尊重し、「個」を永遠なものにしようとあがくのか、多様な変化を遂げながら「永遠」を勝ち取っていくのか。
上に挙げたFFのほとんどは、後者を選択しています。FF3でも「人間の命がもっとも素晴らしいもの」という台詞があった気がします…。命が終わり次の命へ変化し、ダイナミックに入れ替わり立ち替わり……。
(アルティマニア(10-2だったと思います)で、野島さんが「改めて思うと、坂口さんをなぞってきたんだなあと思った」という話をなさっています。となると、野島シナリオ云々ではなく、FFの奥底にあるものそのものなのかもしれません)
一方、FF8だけは、それが薄い。むしろ現状維持を求めている物語。極端に言えば、「今」が続くこと。未来ではなく。
これは未来が「確定」されてしまっているから、でもありますけどね。既に「未来に可能性はない」ことを彼等は見てきてしまっているのです。
だから、ゲームエンディングの後に、どうしても硬直した世界しか、私には想像できません。
あ、答えがどうやら見えましたね。
可能性のある未来か、決定された未来か。
それによって、「生き延びさせるもの」の選択が異なってきているのでしょう。
不確実性が全く違う。なんだか……ベイズの定理を見ているようです。
(FF8の場合は「事後確率のようなもの」が分かってしまう)
追記:しかし、FF8の場合、「魔女の力の継承」がFFにおける「つながり」の代用物として使われているのでしょうか? 他のものに比べると「つながること」がややあからさまなような気もしますが。
もちろん偏見だらけの考え方なんで、「ふっふーん」と鼻で笑い飛ばしてくださって結構です。よ。
あと、問題があったらばっしばしと指摘してください。
初めまして。永遠性の話、楽しく拝読致しました。
FF8が仲間外れ、というのは、サイファーの「群れて襲いかかるモンスター。そりゃ、おまえたちだ」に代表されるように、「裏返しの物語」だからじゃないか、と拝読して思いました。
以前「一個の自我を確立するための物語」という話をされてらっしゃいましたが、それに関しても当て嵌まるのは(父親役としての倒されるべきシドとラグナがあるため)サイファーですし、(解釈は色々とあるでしょうが、時間圧縮で)個より全体としての生を選択した(ように見える)創造神の末裔(クリスタルの変化系)の使者という点でも、普通のFFでしたら主人公だったのはサイファーでしょう。また個より全体を選択する主人公には、ティファやティーダのように太陽や光が割とわかりやすく名前につけられていますが、これに当て嵌まるのもスコールではなくサイファーです。
FF8というのは、本来主人公であるべき人物を敵側に置いて、主人公を裏切る敵役(FF2でLeonhartの役柄、或いはライブアライブでのstray-bowの役割)を主人公に持ってきた、裏返しの物語だからこそ色々と仲間外れなのじゃないかと思うのですが。仲間外れにすることで「敵と俺たちを分けているのは善悪じゃない」が際立つと申しますか。昔からスクウェアは敵役を大事にしてきましたが、その集大成がFF8だったのではないかと思います。
ところでご不評のFF3ですが(笑)。DS版は存じませんが、元々3はシリーズの中で最も(当時としては限界まで)プログラム的に凝っていてストーリーはあまりないタイプのゲームだったので、恐らく昔のFFでしたら3よりも、人間の愛憎劇が見られる2のほうが青星さんとしてはお好みではないかと(もしかしたら音楽も)。
しかし8好きでしたら1もお奨め致します、恐らく8の裏返しの元ネタが1と思われますので。8の過去が変えられるバージョンの物語ですので、宜しければ一度お試しください。
では失礼致します。寒さが続いておりますが、お身体ご自愛なさってお過ごしください。
たちもり様、初めまして。
もしかして、Kiss The Moonの日月様でしょうか?!(ちょっと興奮して混乱状態に)
いつも素晴らしい考察、大変興味深く拝読させていただいております!
そしてアホな記事を読んでくださって有り難うございます!(うわー恥ずかしい………!(汗))
「裏返しの物語」ですか。なるほど!(膝を打つ)
個人的には、サイファーの名の意味を「ゼロ」「無」ととらえていただけでして、「何をやっても報われない子ども、ゆえにゼロ」というふうに気軽に考えていたのですが、光に類した意味も持っているのですね。
ご意見を拝見して、本来光であるはずの(ライトがあたるべき主人公であるところの)サイファー(ゼロ)を基点として「裏返し」になっているのか、と、ぱあっと納得がいきました。いつものFFとは対称(あるいはマイナス)の世界。
手前味噌で申し訳ないのですが、たちもり様がおっしゃってくださった「一個の自我を確立する物語」、一人の「人間(もっといえば成人)」になる物語が7以降のFFだとすると、FF8では「運命の子どもたち」という意味深なテーマ曲や、その他「学生、親子、孤児院に所属する」など、メインキャラクターたちが「庇護される存在」という印象を自分は強く受けます。
となると、FF7やFF10とは異なり、FF8は「子どもの」あるいは「成長の止められた」物語であり、これをもたちもり様のおっしゃる「裏返し」と言ってしまってよいかどうか分かりませんが、やはり「反対の」物語となっているのかもしれません。
ちょっと生々しい話ですが、FF8は、映画製作に入ったため坂口さんが積極的に関わらなかった最初のFFだったと思うのですが、もしかしたらそのあたりの事情もこっそり効いていたりするのかもしれません……(笑)。
FF1と2のおすすめも有り難うございます。DS上で出来るようでしたらなんとか手に入れてプレイしてみたいと思います。
生で(?)たちもり様のご意見をうかがうことが出来て大変に嬉しかったです。
本当に有り難うございました!