memoria ferita et oblivio

ちらちらとこのブログの内容を読み直していたら、まあものすごいバイアス(偏向)に侵されていること、とちょっと苦笑。
すべてに情報情報言い過ぎだろう、私。好みがバレバレだわ。はははははは……(超乾いた笑い)
完全に、このサイトを私のメモ書きとして残すのであればよいが、それだったらわざわざブログツールを使う必要もないな、と思わないこともない……うーん、どうなんだろう、いいのかな、こんなんで。

とりあえず覚え書き。最近、私の記憶は飛んでいるので。

FF7、FF9はゆがんだ記憶の物語。FF9の幼児期健忘はともかくとして、ヒステリー(発語を忘れる)のほう。FF7であれば解離性障害(あるいは病的遁走)。

FF8やFF10は忘却する物語。
スコールたちはおそらく記憶が消えても「それがどうした」とGFを使い続けるでしょう。
彼らは記憶がないことをいいわけにはしない。だから記憶喪失というよりも忘却、という言葉がふさわしい。
もっともシドは、孤児たちに戦争で両親をなくしたつらい子供時代のことを忘れさせるために、あるいは敵同士になっても戦えるようにGFを許可したのかもしれない。
そして、ついでに言えば、FF8は未来をなかったことにする。未来を忘却する物語。彼らは知ってしまった最悪の未来を引き寄せないためにも、記憶に意図的な抑制をかける必要があるのかもしれません。あるいは、確定した未来への恐怖を忘れて人々が歩むために。

一方、FF10は過去を忘却する物語。
FF10が好きな理由って、まさにゲーム世界の中であってさえティーダは(記憶という)情報であった、という部分が好きだったのかもしれません。
彼は記憶の外に出ることによって、その記憶を評価する存在、メタ記憶となります。
ま、メタ記憶なんて普段は、ある事実を知っているか知っていないか(たとえばベートーヴェンの電話番号は?と言われたら私たちは「そんなこと知らない」ことを知っている)、記憶についての定量的な判断だけをする部分ですが、ティーダの場合は定性的な判断、つまり意味の部分まで食い込んで判断せざるを得なかった。いや判断というよりもむしろ評価か。

FF10では最後ユウナは「時々でいいから思い出してください」とつぶやくものの、実質的にはFF10は、ザナルカンドの膨大な思い出を消滅させる、すなわち忘却を求める物語です。また本来は、彼女の想いである少年をも諦めさせる物語でした。
そのせいで、彼女はその小さな言葉の中で、実は、スピラに対する小さな裏切り、あるいは世界に対して復讐を始めた。それが10-2の(本来行うべきではない、ザナルカンドの死者の思い出である)ティーダ呼び戻しにつながるといったらうがちすぎな後付解釈もいいところ

追記:web拍手やFanFicにいただいたご感想についてのお返事は下のサイドバー(なんか変な言葉ですが気にしないでください)からいけるようにしました。ご確認くださいー。
(D様、メッセージありがとうございました!)

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