昨日の夢はなかなかでした。
初めての体験でした。
なんと、ティユウが夢に出てきた!
いちゃいちゃしてました(笑)。ロゼワインをティーダがかかえていました。ってキミ、未成年じゃ……?なーんて話をユウナと会話しているものでした。ユウナちゃんはもちろん飲める!
つまり、10-2エンディング後の物語なんですが。
えーと、私欲求不満なんですか……?!(酒が切れた?!)
基本的に、映画などのリアルな人間像でない限り、アニメ……は見ないのでなんとも、ですが、ゲームの中のキャラのような存在の物語の夢、って見たことがないんです。自分がプレイしている夢は見たことは数度あるんですが(FF12とベイグラ)。
それと、自分が見る夢は、「そのことをずっと考えている」状態だから見るのではなく、ほぼ意識下に落ちそうなときに、ふっとすくいあげるかのように見ることが多いのです。結構こういう方は多いのじゃないかな。ちなみに、夢について詳しいことを知りたい方は「夢の科学」をどうぞ。おっもしろいですよ~。この著者も同様の夢の見方をしています。
ちょっと忘れかけそうになっていたFF10を思い出せ!ということなのかなぁ。
そんなふうに、妙な願望?がまじったよーな夢ですが、やはりFF10-2でのティーダ復活は公式ではないと……思ってしまいます。ということをつらつらと書こうとしてはいるんですが、面倒くさくなってきました。
なのでここでざらっと書いてみると。
FF10は、同じことを繰り返す、変化を恐れ滅びた存在を維持することへの強烈なアンチテーゼを抱えています。
でも、変化が起きるというのは強烈な痛みを伴うもので、ティーダはその痛み=犠牲を表象した存在。そのためティーダの悲劇性は格段に上がり、多くのプレイヤーが涙しました。
それでも変化しなければならない、という痛ましい意志こそ、物語の芯であり、訴えたかったことではないかと思うのです。それを受け入れていくことが成長であるのではないか……とまで言うのは大げさなんですが。
一方で、FF10-2でティーダが復活するならば、滅びてしまったものを復活させ、維持するという正反対の命題が盛り込まれてしまうわけです。
「変わったな」と言われつつも、結局はそのテーマに逆行してしまう。逆行することを、こともあろうに、ヒロインが望んでしまった。FF10の痛ましい意志の意義が、その瞬間に、全て粉々に壊されてしまうのです。ティーダがユウナ(たち)のために、自らを犠牲にしても望んだ意志を。
それがどうにも嫌だなぁ……と。あそこまで悲劇的な意志をもって求めた命題を、自ら切り捨ててどうするの。という気分といいますか。
あと、プレイヤーも二年分成長してるわけでして……プレイヤーを甘やかしちゃいかん!と教育的指導をツッコミたくなったり。
って、私思い入れがある意味で強すぎますね。キモッ。
ま、裏返せばそれだけのことなんですけどね、ティーダの復活を認めないのは。
「世界を二度も救ったユウナにはご褒美」ということで、特例(あるいは命題から逃れた存在)が認められたのかなあ……ということにしています。
マルチエンディングであることも、ユーザの選択に合わせて解釈させるようにした、ティーダは必ずしも復活するとは限らない、というのをギリギリで示したのかな。
命題に沿って考えるならば、ティーダは復活させるべきではなかったでしょうし。
復活させるなら、その痛ましい意志に見合うだけの説得力が欲しかった……!
恋愛ばかりが注目されることって、作り手としてはどうなのかな。
もし本当に言いたかったことが伝わっていないのであれば、切ない。
(どうやら、自分が二次創作にせよ一時創作にせよ、ツクリテであるつもりなので、一方的にプレイヤーとして鑑賞しきることができません。ツクリテの立場を邪推してしまう。)
ってこんなところでワケわかりましたでしょうか?