Nierという名前を見ていつもつい、Nie,Re-Nie,と考えてしまう青星です。Nie、Nein、Non、……No。
そしてタイトルのNieR RepliCantというわざわざCがでかくなっているところ、これ、Nier Can’t Replicate (himself or the world)、ということだったんだなと独り合点しています。
さてニーアの設定集買いました。とりあえずE-End、DLCにしてくれ(笑)。世界の行く先なんか知ったこっちゃあないんだよ。
モトイ。非常に濃い設定集なので、読んでいるだけで面白いし、ショートストーリーがこれまた良い出来です。ヒロインのカイネさんは、神になりうる存在だったかもしれないけど、心の中で偏りが生じたことで「人」に墜ちたのだろうなとか、別に墜ちたといってもそんなに悪いことじゃないよなとか(笑)ぼやぼやと考えています。
攻略は特に見てません。Easyだから特に必要なかったし。
また、細かい設定が明らかになり、漸く世界を理解しました。
基本的に私はこのゲームがとても好きなんですよ。綺麗な物語だし楽しませよう!という心意気がストレートに伝わってくるし。
ただ、何か、こう、もやもやっと…うーん、これはツクリテとしてフェアじゃないだろ!と言いたいところもあって…。もちろん、シグマのようにいい感じにもやもやする話なら基本的に大好物なんですが、こちらのほうはツクリテ側の出す材料がちょっとなーと思っちゃったりするわけです。
以下ネタバレ。
この作品は「世界をとるか妹をとるか」というキャッチコピーの下での物語のはずなんですが、「妹をとるならどうなるか」が結局設定集でしか語られません。
もちろん、現実世界においてそういう裏側が見えないから語らなかった、という製作者側の意見も分かるんですが、ゲームプレイ中に分からなければ「その世界の失われることの重さの意味がないじゃないか」と思っちゃうわけです。それならいっそのこと完全にヒミツにしておいてほしかった、と。
ゲシュタルトは滅亡するだろう、しかし、レプリカントは生き残るなら、結局の所レプリカント存続で人間万々歳じゃないの、と思ったりしていたんですが。
そもそもゲシュタルトしたところで人間じゃないよ(笑)。こういうのって心身二元論がこびりついた私たちの考え方がすけてみえますよね。ゲシュタルト化した存在って物凄く夢のザナルカンドと重なってしまうのですが。
もうひとつ。
設定に無理があるというか…物凄くシンプルにいえば、わざわざ大事な大事なレプリカントで敵を追い払う必要はなかったんじゃ?
すべてアンドロイドに任せておいて、人間のデータからレプリカントだけ抽出して作ってそのまま寝かせておけば良かったじゃないか…まあ、コストがアンドロイド>レプリカントならば分からないでもありませんが。
あとは、シンプルにゲシュタルトなる存在が千年も生きる必要ないだろう、というものです。
ニーアのお陰で千年の「夢」みたんだから、ニーアによって断ち切られてもいいんじゃないの?
にしてもレプリカント設定だけは……タイトルオチだからやめてほしかった……いや、もうタイトル見たときに「あー、主人公偽物だろ?」ってなっちゃうじゃないですかぁああああ。それだけは、と思っていたんですがねぇ。バッシュが双子だった!が判明したときと同じ乾いた笑いを浮かべてしまいましたよ。
それにしてもあの最初のシーン、FF13のコクーンの最後の姿とも似てますね…。
実を言うと、FF13も最終的に亡びの物語だと思うのです。FF的には、あるいは私的な視点から見れば「成長(大いに疑問が残るが)と自立」というシンプルなゴールは達成されていますが、コクーンから下りたところで、ファルシによって次々と人間は道具にされていく。結局パルスには人間は生き残れなかったわけで、それより安寧の生活をしていたコクーンの人間が生き延びるなんて無理ではないかと。
むしろコクーンは(バルトアンデルスによって利用されかけたものの)、人をまもる繭だったんだろうなあと…いや、まあ、避難場所的な意味で。