AC後、早速ゲーム(PS one Books ファイナルファンタジーVIIインターナショナル)をやり直しました。
「FF7ってこんなに面白い話だったのか!!」と目が覚めました。実は初回プレイの際、「それなりに興味深い、けれどちょっと……」という印象のゲームだったのです。
なぜかというと、安易に分裂症という言葉を使っていたから。これは誤った語法でしょう。
クラウドの症状は明らかに分裂症(統合失調症)ではなく、むしろ病的遁走という状態に近かったと思います。
この辺りの病理学的云々については専門家ではないのでパスしますが。
しかし、ゲームを始めてもう一つ思い出したこと。
それは。
私にとって公衆便所のファンタジーだった!ということなのです。
特に最初のミッドガルの猥雑な描写。灰色と落書き、つまり小汚さの描写がある中で、トイレが細かく書き込まれている。ファンタジーにトイレって、考えてみたらきわめて珍しいことなのではないでしょうか。また絵の細かさで、リアリティたっぷり。
すると、ほら、あの公衆便所(トイレともいえない)のアンモニア臭がぷぅんと漂ってくるような……。少なくとも「くせぇ」とロッズなみに顔をしかめちゃうくらいに、私には伝わってきました(ちょっとおおげさ)。
さて、このトイレにどのような効果があるのかちょっと考察してみました。
トイレ。我々にとってどうしても欠かせない物(笑)であり、習慣的な記憶ともなっています。もうリアルもリアル、この習慣がリアルでなかったら何をリアルというのか!というくらいに。
で、同時にあの丁寧なトイレの絵が引き金となって、こちらに否応なしに記憶、つまり「実感」を呼び起こす。
そのせいで、妙にこのミッドガルという町は現実感を携えてこちらに向かってくる。
そう言った意味で、FF7は、「実感」としてのリアリティが他のファンタジーをはるかに超えて強い、と私は思いました。
クラウドの弱さは「ヒーローだと思っていたけどふたを開けてみたらただの人だった」という、普通の英雄譚とは逆ベクトルのおもしろさがあって、その弱さゆえに感情移入しやすい。
でも、それ以前に描写される世界でも現実感をうまく作り出し、その感情移入を助けているのかな。
なお、ACでは逆に、「こちらのリアリティ」ではなく、「彼らの住む世界のリアリティ」は実によく作ってあると思いました。けれど、トイレのにおい、生活臭はしない。せいぜい、ティファが洗い物をしているくらいです。
リアリティの質が違う。
ゲームのほうは、我々が動かすという主体性があって、こちらのリアリティを呼び起こすことによってその世界の「もっともらしさ」を作り上げたのかも知れません。
しかし、映像作品であれば、こちらが手を出すことはまずありません。その世界でのみ実感を表せば、もっともらしさが生まれてきます。むしろCGであるがゆえに、どうしても現実世界とは相容れない部分があって、「トイレを使ってよびおこされるような」実感(現実感というほうがいいのかな?)は生み出せないのかもしれません。