FFXのファンの方はもうご存じだと思いますが、続編が出ることになりました。
最後、主人公の生死の曖昧さによって、ユーザに判断を任せる自由度を与えたのと同時に、「では真実はどうなんだ!」という考えも生まれてしまいました。
個人的には、FFXのエンディングとその後のエピソード(永遠のナギ節)は「うまく作ったなぁ」と感心していたのですが、世の中のゲーマーさんたちはそうではなかったようです。なんと声に押されて続編が!
(まあ、スクウェアの戦略に踊らされているだけの可能性もありますが(笑)、そういうことを言いたくないのがファンのつらいところです。)
この曖昧な終わり方、正直に言えば小説や映画ならパターン化されているほど、ありがちなものだと思います。でも、小説、映画ならたとえどれほど売れていても、ツクリテの意志のほうが重視されますよね。特に物語に完全な完結を与えている場合は。
続きを書くかもしれませんが、「絶対に書かない」という主張もありうるわけです。
しかし、ゲームはそうじゃないんだーと、ある意味驚きの現象でした。
多分小説だったらそのエンディングでも、「そうか~」で終わっていたんでしょうが(うしおととら…あ、あれは漫画か)、ゲームでは納得いかない!という人多数出てきてしまって、ゲーム会社はそれに対応してしまう。
このような現象が出たのはなぜか?それはゲームへの自己関連度のせいではないかと密かに思っています。
操作感は人間にとって非常に重要な感覚です。ただの受け身ではなく、操作することによって(たとえそれが受け身と全く変わらないものだとしても)「自分が動かしている」という達成感が得られます。
ゲームは自分で操作が出来るということで、自己関連度(没入度?)も高くなってしまうんでしょうね。
だから、エンディングも自分の思うようでなければ、あるいはもっとはっきりしたものでなければ受け入れられない。
本はあらかじめ、世界の構築を読み手に任しています。目の前に用意されたものは恣意的な記号だけですから。ただし構築するぶんそれだけ自分の中で操作していることでもあって、没入度も高まる。
ただし、エンディングを任されても、本の場合は受け入れられるでしょう。もともと、自由度が高いことを読み手が認識しているから。
けれど、ゲームは映像や世界観がお膳立てされていながら、没入度も高い。映画よりも高いと思います。自分で操作しているんだもん。
自由度が少ないのに没入度が高いといったほうがよいのでしょうね。だから、突然自由度の高いエンディングを持ってこられてしまうと、齟齬を感じてしまう。
そういう現象が今回起きたんだな、とふと思いました。
ただしそれが悪いというわけではありません。
ゲーム会社はやはりコンシューマー第一!という精神を持っているんだな、と思いました。
作家さんは、その意味においては、ちょっと無駄にプライドが高すぎることもあるかもしれない。
ゲイジュツの分野と見なされる可能性があるかないかで、そういう態度の違いが出てくるのかもしれないけれど。