かなり毒舌なので注意。最大公約数の夢は平凡だ。
FF15という文脈を離れて小説の内容だけで評価するなら、素晴らしい冒険活劇で、ゲームとして遊びたかったなあ、と率直に思う。実際、私が希望していたウェポン系との戦闘が実現されていたし。(シナリオのフィックス度合が露骨に分かる出来だと思ってしまったが。前半に比べ、後半2編はまだやや弱さがある)
けれど、FF15本編を前提として考えるならば、複数の肯定的なレビューにあったFF15の長所を無残にも踏みつぶしてしまった。
FF15は、普通の、どこにでもあるRPGに堕してしまった。エピソードイグニスのifエンドのように。
でも、作り手側が「みんなが望んだエンディング」というように、多くの人がそれを望んできたようだし、ざっとふせったーをあさってみても小説に対してほとんど肯定的だった。だから、この小説を読んで悲しい自分が少数派なんだろう。
評価と批判は表裏一体だ。
FF15本編は、力及ばぬ中どうやって人間性を語るか、成長を語るか、という部分が素晴らしいという意見がレビューの中で多く見られた。私もそう思う。どうしようもないものを前にしたとき、人がどうあれるか。辛い運命を飲み込んでも、先に行けるか。
だからこそ、キャンプのエンディングがとても美しかった。あの最後の四人の会話は物語を締めくくるに最高だった。思い返してみれば、その後を語るセリフ、モノローグ、あるいは走馬燈のようにこれまでを語ることはあれど、思い出や未来ではなく、リアルタイムのシーンとしてあのような会話を交わすエンディングは少ないのではないか? そのリアルタイム性によって、私たちは「だったとさ」と語られるのではなく、そのシーンの中に「生きる」。
だから、涙腺にとどめを刺されるのだ。
一方、FF15で抗えないものだった運命や神が、「抗えるもの」と化したとたん、FF15の「期せずして」もっていた神秘性やスケール感が一気に矮小化した。通俗的になった。それは普通のRPGと同じだ。
運命に打ち勝つ、というのは少年的な楽観論による勝利だ。だからFF10では「カッコつけて大人ぶってさ!」と少年のティーダが的確なセリフを吐く。
しかし、抗えないものを前にし、苦みを飲み込み、それでも俺は人間だと叫んで立つ、これははるかに難しい、大人の行為なのではないか? 少なくとも、後者のほうが成長を感じる。
もともと人間に近い立場だったシヴァはともかく、バハムートのちっぽけな悪役っぽさはなんだ。エピソードアーデン程度の小細工を弄するあたりまでは、私の中では許容範囲だったけれど。完全に駒扱いするのは、そりゃそれで構わない、バハムートなんだから。
確かにバハムート倒したいと思った人は多いだろう、でも私の中では、それは半ば冗談のような部分があったし、もともとあれは自然現象のようなもので、私怨を持っていなかった。
だから、バハムートにその憎悪を全て集中させるような、シンプルな悪役にするとは思っていなかった。
たとえ文中に何度も悪意はないのだと書かれていても、もっと泰然自若とした、高次の存在として書かれてあってほしかった。
なぜ、最後のボスをバハムートにしたのだろう。エピソードイグニスで王墓を回っていた描写があるから、せめて他の理由をつけられなかったのだろうか?
ハッピーエンドが面白くないわけではない。
本編エンディングの美しさは随一と思っているが、一方キャラのハッピーエンドは望んでいた。私のスマホの壁紙は、カエムでの幸せそうな家族の様子だ。それくらい、楽しみにしていた。
けれど、「バハムートが悪かったのでした~」というあまりにもありきたりで分かりやすい方法によるハッピーエンドになってしまったのがとても残念なのだ。
FF13であったような神(ブーニベルゼ)は、もともと死が怖くて逃げ込むような矮小さを持っていたから、倒すにも躊躇はなかったが、FF15のあそこまで強大で、美しい神々だったそれらを、なぜそこまで矮小化してしまったのだろう。
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.
そのせいで、「それに負けてしまった(かのように見える)」本編のあの美しいエンディングまで矮小になってしまった感がある。
また、FF15の持つ、主人公が語らないこととよく似た、なかば内省的な静けさが喪われてしまった。
ロイヤルエディションでやたら賑やかなインソムニアになってしまったときにある種変貌はしていたが、静かなインソムニアを回って最後の思い出探しをする、あの時の静謐な美しさ。
少年時代との決別、友人との決別での限りない切なさ。慕ってくれた子どもが、大人になってようやく己の罪を告白する悲しみに対して答えるやさしさ。
悲哀のなかにも、それらにどこかしら小さなポジティブなものがある。決別が切ないのは、それが宝物のように美しいからだ。大事な年下の青年への慰めは、夜の中でささやかにともる、ろうそくの炎のように暖かい。
もともと、FF15とは大人になる前の最後の旅行、まさしくモラトリアムのメタファーだと思っていたので(だからこそ、大人の世界に行くことが死としてあらわされた。独り立ちを結婚という表現で示している)、迫るモラトリアム(実際、大人になるまでの猶予期間という意味だけではなく、死刑執行猶予期間の意味もある)の終わりと残り時間の短さ、そこをリアルに感じさせてくれたから本当に美しい物語だったと思うのに。
私はこの作品が大好きで、そこを担当した人がとても力を入れたのだろうな、自分の担当パートでどうやって遊ばせようか限界まですごく考えたんだろうな、と所々で感じた。「所々で」というのは、あまりにも大規模で長期間にわたって制作された作品だからか、やや統率が取れていない部分があると感じたからだ。
だが、そのせいで、FF15がゲーム媒体として「物語を語った方法」の真の凄みを、開発者側が一体どこまで理解していたのだろうか、とこの小説を見てつい考えてしまう。
(分かっていなかったはずはない、と思いたいのだけど。でなければ、Too much is never enoughが選ばれないのではないかと思う)
FF15の中でリアリティを追及することで生じた何か、それはリアリティを追求したことによる単純な合算ではない。さらに、普通物語表現の受け取り方法である「読む」「聞く」「見る」といっただけではなく、その中のキャラクターをわずかなりとも「自発的に操作する」プレイヤーの思い入れも加わって、何らかの創発性が生じた。
それがすさまじく新しい体験になった。ストーリーラインだけでは語れない、言葉にならない情の繊細さがあった。
Too much is never enough.
この美しさが、小説にはない。
かなしみを、かなしみのまま味わうこと。それが15のリアリティであり、美しさだったはずだ。ポジティブな感情を呼び起こすためのものだけが良い作品ではない。
その力を、どこまで彼らは理解していたのだろうか?
私は「期せずして」と書いた。
もし理解していたならば、ファンの声につられてこのような「普通のRPG」の物語にしていただろうか?
あるいは、ヴェルサス由来に縛られた本編ではなく、もともと作りたかったのは「こんな物語」だったのだろうか。